2007年度第2学期 「哲学史講義」「ドイツ観念論の概説」        入江幸男
           第12回講義(2008年1月23日)

 
参考文献
コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』上妻精、今野雅方訳、国文社
金子武蔵『精神の現象学への道』岩波書店
アドルノ『三つのヘーゲル研究』渡辺祐邦訳、河出書房
『ヘーゲル事典』弘文堂

                 
§12 ヘーゲルの思想展開
 
チュービンゲンシュチフト時代
「εν και παν」(レッシングにちなむスピノザ主義の合言葉、藤田p15参照、後にシェリングはヘーゲルへの手紙で「私はこの間にスピノザ主義者になった」(Br,I,22)という。)を合言葉に「同盟」を結ぶ(Br,IV/1,136)
「民族の精神、歴史、宗教、政治的自由の度合はその相互に対する影響という点からいっても、その各々の性質からいっても、切り離して考察することは出来ない」(N27)
 
ベルン期のヘーゲルは基本的にはカント主義者であった。近代的個人主義であると言える。形而上学も認める。
「人間の究極目的は道徳である。これを促進する人間のさまざまの素地の中でも、宗教へのそれはもっとも優れたものの一つである。神の認識はその本性からいって、死せる認識であることは出来ない。それは人間の道徳的な本性のうちに、その実践的な要求のうちにその起源をもっている。そして、そこから再び道徳が生まれる。」(N,48f)
「すべての人間に普遍的法則として妥当する格率に従って行為せよ」(イエスの生涯N,87)
 
「理性と自由が僕達の合言葉だ。そして僕達の一致点は見えざる教会だ」(Br.I,18,Ros.,69)
「カントの体系とそれの最高の完成から、ぼくはドイツにおけるひとつの革命を期待している。・・・人間の尊厳をより高く評価し、人間を精神と同列に高める自由の能力を人間が持つことを、なぜひとはそんなにも遅く気付いたのだろう。」
(しかし、この手紙の中に「勿論密教哲学と言うものは常に残るだろう。絶対我としての神の概念はそのひとつ。実践理性の要請を新しく研究しているときに、僕ははっと思い付いたことがある。」(Br.I,23,Ros.,70)こうも言っている。ここでの「絶対我としての神」はカント哲学に矛盾するものである。そのことにまだはっきりと気付いてないようである。)
「あらゆる真の宗教と我々の宗教の目的と本質は、人間の道徳性である。」(実定性Thj.,153,HWI,105)
「我々のMetaphysikが我々のPhysikよりも優位にあること、抽象概念が感覚的なものより優位にあることが必要である。」(Thj.,56,HW.I,81f.)
「神に近付くということは、どういう意味であるかを、一論文に明らかにしょうとしたことがある。そして、僕は、それは実践理性が現象の世界に命令するという要請、その他の要請の満足であると思った。」シェリンング宛手紙1795830
{ヘーゲルが後に、感情によって有限な生が無限な生へ高められると考えたことは、この問題の別の解決であったのだ。この時、既に神との合一というロマン主義的な或は汎神論的な希望が述べられている。「一論文」とは何か。}
「ただ実践理性のみが神への信仰を根拠付ることができる。」(N,361)
 
フランクフルト期のヘーゲルはカントの道徳性の立場を批判する。
「道徳性とはカントによれば普遍のもとに個人を隷属させることである。」(Thj.,387,HW.I,299)
「と言うのも、普遍性は個人に対置されているが、生はそれら両者の合一だからである。ーー道徳性は私自身への隷属であり、自己自身内部の分裂である。」(Thj.,390,HW,I,303)
 
愛の宗教の立場に立つ。
「宗教は愛と一体である。」(HW.I.244)
「愛はただ同じ者に対して、鏡に対して、我々の本質のエコーに対してのみ生じる。」「愛の相手は我々に対立しない。我々の本質と一である。我々はそこにただ我々自身を見る。ーーしかし、やはり再び我々自身ではないーー我々が把握することの出来ない不可思議」(N,377)これは、プラトンの「パイドロス」の愛の定義にもとづく。藤田、P96。愛を把握できないことがはっきりと述べられている。
 
「美しき宗教を創始すること、その理想は? それを見いだすことが出来るか?」(キリスト教の精神とその運命H,387)
「モーセの宗教は不幸から生まれ、不幸に向かう宗教である。」(N ,373)
 
しかし、愛の限界が指摘される。
「幸福な愛の瞬間には、客体性の余地はない。しかしそのつどの反省が愛を廃棄し、客体性を回復し、これと共に再び制限の領域が始まるのである。それ故に、宗教は愛の補完πληρωμαである。(反省と愛を統一し、両者を結合するように見える。)愛の直観は完全性の要求を満たすように思われる。しかし、これは矛盾である。直観するもの、表象するものは、制約するものであり制約されたもののみを把握するものである。」(Thj.,302,HW.I,370)
「愛はまだ宗教ではない」(Thj.,297,HW.I,364)
 
この事が反省の必要性を見直させることになる。
1800914日に完成しているSystemfragment von 1800では、反省が付け加わることによって神的な感情が完全になる事が認められる。しかし、反省によっては無限の生へ高まることは出来ず、哲学は宗教と共に終らなければならない、と考えられている(HW1,423)
ところが、「実定性論文の改稿」(1800924)では、人間と神の関係についての研究は「最終的には有限なものの無限なものへの関係の形而上学的考察へ移行する」(HW1,225)と述べている。
 
ヘーゲルは1800112日のシェリング宛の手紙で、「人間の下位の諸欲求から始まった私の学問的な教養形成において、私は学問へと駆り立てらねばならなかった。青年時代の理想は同時に、反省形式へ、体系へと転換しなければならなかった。しかし、これをやりながら、私は、人間の生活の中に入り込むのにどの様な戻り方が見つかるであろうか、と今自問している。」
ここにいう「体系」は、もし、「形而上学」が「反省形式、体系」の立場に立つものであれば、「改稿」で「形而上学的考察」と呼ばれているものであろう。
 
イエナ期のヘーゲルの最初の体系構想は、次のようなものであった。
1、論理学、理念そのものの学
2、自然哲学、理念の実現
3、人倫的自然、実在的精神としての
4、宗教、理念の最初の単純性への還帰
 
論理学は思弁哲学とも呼ばれ、形而上学への導入の役目を行うものであるとも言われている。上の構想の中のどこに形而上学が位置するのか。1の中に含まれるのであろう。
Fragmente aus Vorlesungamanuskripten(1801/02)において次のように体系を構想している。(Vgl. Hegel-Studien Beiheft 8 S.334ff)
1、論理学、形而上学  ( 絶対反省、絶対認識が規定されている。)
2、自然の哲学   (天体の体系、機械的なもの、化学的なもの、有機的なもの)
3、精神の哲学               (表象、        欲望          自由な国家)
4、絶対精神の哲学(理念の直観、芸術、        宗教          純粋理念)      (自己認識)                          
 
 
「人倫の体系」はこの3を構成するのであろう。
「ドイツ憲法論」という政治的ー歴史的研究は、「人倫の体系」で思弁的ー体系的水準で取り上げられた。(Kimmerle Hegel-Studien Beiheft B.4 S.39)
「自然法論文」と「人倫の体系」は本来的仕事と序文の関係にあるとLassonKimmerleはいう。Kimmerle Hegel-Studien Beiheft B.4 S.40)
 
1803年初夏の手稿では哲学は「理念の学問」と定義され、ここではまだ宗教がEndpunktである。これは「差異論文」で述べた哲学の最終部分を含んでいる。
 
1803年秋のFragmente eines Entwurfs zur Philosophie der Naturでは、Gestaltという概念が研究され、これによって、「精神現象学」も可能になった。
 
Begriffがヘーゲル独自の意味で用いられるようになるのは、「信と知」からである。そこではBegriff=Unendlichkeit(HW,II,293) しかし、BegiffIdeeは区別されている(HW,II,296)reiner Begrif= Unendlichkeit(HW,II,432)
「絶対的概念」については、「自然法論」で absoluter Begriff = Intelligenz  =Unendlichkeit(HW,II,454) =negative Vernunft(HW,II,468) =das negative Absolute(HW,II,470) =das Gegenteil seiner selbst(HW,II,488)と述べられる。
「人倫の体系」ではabsoluter Begriff = das wahrhafte Besonderes(7) =
das Gegenteil seiner selbst(15) =Inteligenz(16,21,53) =das Unendliche (29,55) =die absolute Subjektivitaet(33) =Bewusstsein(55)  Die Anschauung,welche den Begriff subsumiert,ist selbst absoluter Begriff,der Begriff,der die Anchauung,ist selbst absolute Anschauung.(78) 
 
ヘーゲルはIntelligenzを「差異論文」ではあまり(HW,II,42106)用いていない。むしろVernunftが用いられることが多い。これに対して、「人倫の体系」ではVernunftよりもIntelligenzのほうが多く用いられる。「実在哲学I」では「意識」が、「実在哲学II」では「自己意識」が多く用いられる。
 
1803/04冬のerster Entwurf einer Philosophie des Geistesで初めて意識の問題が出る。これはIntelligenzを意識へとたかまる精神と捉えることから生じる。ここに、主観的な意識がいかにして絶対的な同一性の概念と連関するかという問題が生じ、これによってフィヒテの研究へ戻る。
 
Literarhistorisches Taschenbuch 1844でロゼンクランツが延べている、今日では失われたSystementwurfの中では、もはや宗教がヘーゲルの思惟の内的な中心点では無くなる。
Leben der Idee=Dreieinigkeit=ein Dreieck aus Dreieckenであり、
Totalitaet= ein ueber Dreiecken und ihrem Prozess ruhendes Viereckである。
 
Jeneser Logik,Metaphysik und Naturphilosophieは清書されており、ヘーゲルが出版を予定していたことが判る。しかしこれは出版されなかった。その理由は、
1、哲学体系の叙述の始まりを基礎づけるという問題が解決されていなかった。
2、哲学の基礎的な部分を終結させる認識の問題が解決されていなかった。ヘーゲルは絶対精神を絶対的円環として構成することによって形而上学の終わりから論理学の始めへと戻ることによって、自己を新しく批判的に基礎付る形而上学という連関の中へとはいろうとした。
3、精神哲学への移行の失敗。精神哲学の意識論は、いままで形而上学の中で扱われていたから。
この1、2は「精神現象学」によって解かれ、3は実在哲学によって解かれた。
 

               §13 Hegel’s System
 
1、ヘーゲルの体系構成
 “Enzylopaedie”(1830) 
§14
「絶対者の学問は、本質的に体系である。といのは、真なるものは、具体的なものとしては、ただ自己を自己内に含み、統一へとまとめ、維持しているものとしてのみ、すなわち総体性(Totalitaet)としてのみあり、その諸区別項の区別や規定によってのみ、それらの必然性と全体の自由でありうるからである。
体系のない哲学は、学問的ではありえない。[…]内容は、全体の契機としてのみ、その正当化を者とであり、それがなければ、根拠付けられていない前提ないし主観的な確信である。」
 
§15
「哲学の各部分は、一つの哲学的全体であり、自己自身の中に閉じた円環である。しかし、哲学的理念は、各部分において、特殊な規定性、あるいはエレメントのうちにある。個別的な円環は、それが自己内において総体性であるがゆえに、そのエレメントの制約を突破し、より広い領域を基礎付ける。全体は、それゆえに、円環からなる円環として現われる。その各々の円環は必然的な契機である。従って、それらの固有のエレメントの体系が、理念全体を構成する。理念は各々の個別的エレメントにおいて現象する。」
 
§18
「学問は三つの部分に分かれる。
I.   論理学、即且対自的な理念の学問
II,  他在における理念の学問としての自然哲学
III. 他在から自己内に還帰する理念としての精神の哲学 」
 
 
『エンツュクロペディー』(1830)の構成
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I 論理学 1 存在論 A  a 存在
                b 現存在
                c 対自存在
B 量 a 純粋量
    b 定量
    c
             C 度量   
     2 本質論 A 実存の根拠としての本質 純粋な反省諸規定
                         実存
                        
             B 現象          a 現象の世界
                          内容と形式
                           関係
             C 現実性         a 実体性関係
                          因果性関係
                          相互作用
3 概念論 A 主観的概念             a 概念そのもの
                         b 判断
                         c 推論
      B 客観的概念           a 機械論
                        b 化学論
                        c 目的論
      C 理念                   a 生命
                             b 認識
                             c 絶対理念
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II自然哲学 1 力学  A 空間と時間          a 空間
                           b 時間
                           c 場所と運動
             B 物質と運動 有限な機械論 a 惰性的物質
                          b 衝突 
                          c 落下
             C 絶対的機械論
      2 物理学 普遍的個別性の物理学    a 自由な物理的物体
                          b 元素
                          c 原始的過程
            B 特殊な個別性の物理学  a 特殊な重さ(比重)
                          b 凝集力
                          c 響き
                          d 暖かさ
            C 総体的な個別性の物理学 a 形態
                          b 分離
                          c 化学的過程
      3 有機的自然学 A 地質学的自然
               B 植物的自然
               C 動物的有機体     a 形態
                            b 同化
                            c 類の過程
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
III 精神哲学 1 主観的精神 A 人間学 心         a 自然的心
                                  b 感ずる心
                                  c 現実的心
              B 精神の現象学 意識 a 意識そのもの(α感性的意識、β知覚、γ悟性)             
                    b 自己意識(α欲求、β承認する自己意識、γ普遍的自己意識)
                    c 理性
              C 心理学 精神 a 理論的精神(α直観、β表象、γ思考)
                       b 実践的精神(α実践的感情、β衝動と選択意志、γ幸福)
                       c 自由な精神
       II 客観的精神 A 権利         a 所有
                          b 契約
                          c 不法に対する権利
              B 道徳性        a 企図
                          b 意図と福祉           
                          c 善と悪
               人倫性        a 家族
                           b 市民社会(α欲求の体系、β司法、γ警察と組合
                           c 国家(α国内法、β対外法、γ世界史)
       III 絶対精神 A 芸術
              B 啓示宗教
              C 哲学
 
 
 
 
2、ヘーゲルの「論理学」
■論理学と存在論の関係
ヘーゲルの論理学は、形式論理学ではない。それは、一定の内容をもった論理学であり、そのアイデアは、カントの超越論的論理学に由来するものである。カントの超越論的論理学は、形式論理学に純粋悟性の原則を公理として加えた体系だといえるだろう。それによって現象界におけるアプリオリな綜合判断があたえられるが、しかし、それにくわえてアポステリオリな経験的判断を我々はもっている。しかし、ヘーゲルの場合には(フィヒテの場合にもそうであったが)おそらく全ての判断は、アプリオリな判断なのである。
 それを示しているのが『法哲学』の序文の有名な言葉(『エンツュクロペディー』(1830)の緒論にも登場する)である。「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。」 この背景には、「思いつき、誤謬、悪、つまらないもの、儚いもの」は偶然的なものであって、存在してはいるけれども存在しないことも出来るものであり、「現実」と呼ぶに値しないという主張がある。その意味では、ここにいう「現実的」とは「必然的」とほとんど同じ意味なのである。ここでいう必然性とは、自然的な必然性ではなくて、論理的な必然性つまりアプリオリということである(必然性=アプリオリを自明視するのは、クリプキ以前の議論であるので、現代ではこの点の再考が必要になる。)
 ヘーゲルにおいては、論理学は同時に存在論なのである。
カントは、三つの理念について、アンチノミーが生じることを指摘した。その原因は、主観の側(反省ないし理性)にある。アンチノミーはいわば主観にとっての仮象であって、存在そのものが矛盾しているのではない。これに対して、ヘーゲルは、全ての概念がアンチノミーに陥るという。しかも、そのアンチノミーは、我々の主観にとっての仮象にすぎないのではなくて、存在そのものが矛盾しているのだという。
 ヘーゲルの大論理学は、「存在」⇒「無」⇒「生成」⇒「現存在」というように概念が展開していくのだが、それは我々のそれらの概念に関する思考が展開するにとどまらず、その過程は存在そのものの展開でもあるとされる。その意味で論理学=存在論なのである。論理学のこの前提は、『精神現象学』の結論である絶対知、すなわち<存在=思惟>に基づくものである。
 
■如何なる意味で、「大論理学」は「精神現象学」を前提とするのか。
 精神現象学は、学の概念を成果とするものであり、「この概念は(それが論理学自身の内部で生み出されることを別にすれば、)ここでは如何なる正当化をも必要としない。この概念は意識によるその産出以外の如何なる正当化も不可能である。」(1-29)「学のより詳しくは論理学の定義は、その定義の出現の必然性の中にのみその証明を持つ。」(1-29f)「純粋な学の概念とその演繹は、精神現象学がその演繹に他ならないという限りで、現在の論述の中に前提されている。」(1,30)ここで、純粋な学とは論理学のことである。
「精神現象学、意識の学は、意識が学の概念つまり純粋知を結果とすることの叙述である、ということが緒論で注意された。その限りで、論理学は、現象する精神の学を前提とする。」(1,53)
 まとめると、精神現象学は、論理学の概念(=純粋知)を成果として与えるものであるから、論理学が論理学の概念を前提とする限りで、論理学は精神現象学を前提とするということである。
 しかし、論理学は、必ずしも論理学の概念を前提とする必要はないのである。「学問的な方法の陳述のみでなく、学一般の概念自身もまた論理学の内容に属している。しかも、その概念は論理学の最後の成果をなすものである。論理学がなんであるかを、論理学は前提することが出来ず、むしろその全論述が論理学自身についてのこの知をその最後のもの、その完成として産出するのである。」(1,23)(初版にもほぼこれと同じ叙述がみられる。)ゆえに、論理学は精神現象学を前提しないでも成立するといえる。
 内容的にはそれは、たとえば次のようなことである。最初に純粋存在と無が同一とされることは、それらの思惟がともに空虚であるからである。しかし、そのことから直ちに純粋存在と無を同じものと見なすことは、常識の立場では納得できないことである。このことは、「精神現象学」で結論として存在=思惟が証明されているということを前提することによってはじめて理解可能になる。これ以外にも存在=思惟を前提して初めて理解可能になる議論が、「大論理学」の中にたくさん出てくる。例えば、・・・
 「大論理学」の基礎付けの循環は、「存在=無」→「存在=思惟」、「存在=思惟」→「存在=無」という循環であろう。「大論理学」は「存在=無」の主張で始まり、それから出発して最後に「理念」の章「存在=思惟」が論証される。しかしまた、最初の「存在=無」の主張は、「精神現象学」の結論である「存在=思惟」に基づいていたのである。ゆえに、この循環を指摘することが出来るだろう。
 もし論理学内部での基礎付けが循環しており、その循環全体が精神現象学に基づいているのならば、学の基礎付けの問題は、精神現象学の基礎付けの問題へと移行する。
 彼は、死の一週間前に書いた論理学第二版の序文では、精神現象学の第二版では、「学の第一部」という表題を取り去ることを予告している(7)から、少なくとも第二版の論理学は精神現象学を前提とせずに成立すると考えていたことになる。しかし、彼は第二版の「緒論」では相変わらず、論理学が精神現象学を前提すると述べているのである。
 
3、ヘーゲルの歴史意識
ヘーゲルを合理論者と呼ぶことは可能であるが、その際には、理性ないし合理性の意味は、大陸合理論での形式論理学の合理性とはことなる。ヘーゲルは、大陸合理論から見れば非合理主義であるだろう。そのような曖昧な意味でヘーゲルは「汎論理主義」と呼ばれることもある。
しかし、逆にヘーゲルは全てを歴史的にみる。つまり彼によれば悟性ですら歴史的である(「実在哲学I 」)。しかし、彼が唯一歴史だと考えないものは、民族である。彼にとって「民族」は自然的なものである(「精神哲学」の最初で、人種や民族について論じられる)。世界史はアジアから始まり、その世界史は、民族国家史観、しかも西洋中心の世界史であり、アジアは、古代に停滞している。しかし、アジアよりもさらにひどい扱いを受けているのが、アフリカである。国家を作らないアフリカの民族には歴史がなく、世界史に登場しない。
 
■ 主人と奴隷の弁証法としての歴史論 
(コジェーブによる:「1998年ドイツ観念論の実践哲学研究」の講義ノートを参照してください。)
 
・歴史の始まり
「人間は自己の非生物学的欲望を充足せしめるめにた自己の生物学的な生命を危険に晒すことになろう。」
「歴史的かつ自己自身を意識する人間的な現存在は、血の闘争、尊厳を求める戦争のあるところ、あるいは−ーすくなくとも−ーあったところでなければ不可能である。ヘーゲルが『精神現象学』を脱稿しようとしているときに聞いた砲声もまたこの闘争の一つが発した音だったのであり、その中で彼は自己を意識し、「我とはなんであるか」との問に答えたのであった。」(コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』56
(この講義をしていた(193839において、コジェーヴもまた、砲声をそのように聞いていたのだろうか)
 
・歴史の始まりと終わり
「これまでの内容をつぎのように要約することができる。すなわち、主と奴との出現に帰着した最初の闘争とともに、人間が産まれ、歴史が始まった、と。・・・そして世界史、人間の相互交渉や人間と自然との相互交渉の歴史は、戦闘する主と労働する奴との相互交渉の歴史である。そうである以上、歴史は主と奴との相違、対立が消失するとき、もはや奴をもたぬために、主が主であることをやめるとき、そしてもはや主をもたぬために、奴が奴であることをやめ−ーさらにはもはや奴がいない以上新たに主にもならぬとき、歴史は停止する、と。」
 
・歴史の3期
歴史の始まり=「闘争とそれに続く主による奴の支配」59
第一期=「人間的現存在がまったく主の現存在によって規定される時期」59
     主であることが、己の可能性を実現し、己の本質を開示する。 
     非キリスト教的世界(古代ギリシャ)
第二期=「人間的現存在が奴の現存在によって規定される時期」59
     奴であることが、己の可能性を実現し、己の本質を開示する。 
     キリスト教的世界(古代ローマからフランス革命ーナポレオンまで)
第三期=「中和化され、総合的となった人間的現存在はそれ固有のもろもろの可
   能性を行動によって実現し己れ自身を己れ自身に開示することになる」60
    (ナポレオン後の世界)
歴史の終末=「主であることと奴であることとの総合であり、この総合の把握」60
    (ヘーゲルによる絶対知の成立)
 
■補足:現在私が考えるヘーゲル哲学の可能性
1、相互承認論の中に、相互知識論や共有知論の先駆を見ること。
2、意味の全体論の先駆をみること(ブランダムが追究している)
3、ヘーゲル弁証法を物語的な論証形式として見直すこと
4、論理学=存在論というテーゼを現代哲学立場から見直すこと。
 

                  §14 ルカーチの歴史と階級意識
 
ルカーチ『歴史と階級意識』より
「第2章 マルクス主義者としてのローザ・ルクセンブルグ」より
 
「マルクス主義をブルジョア的な科学から決定的に区別する点は、歴史の説明において経済的な動因の支配をみとめるところにではなく、総体性という観点をもつところにある。総体性というカテゴリー、すなわち部分に対する全体の全面的、決定的な支配ということ、これこそマルクスがへーゲルからうけつぎ、根本的に作り変えてまったく新しい学問の基礎とした方法の本質にほかならない。」67
「総体性というカテゴリーの支配こそが、学問における革命的な原理の担い手なのである。」67
「ブルジョア的な科学は、一方では、研究対象の事実上の分離から生じ、他方では学問上の分類や専門化から生ずるところの抽象化・・・を、素朴実在論的に一つの「現実」とするか、さもなければ「批判的に」一つの自律的なものとするのに対して、マルクス主義は、これを弁証法的な契機に高めたり、おろしたりすることによって、こうした分離を止揚するのである。」68
「こうした総体性という観点は、単に認識の対象ばかりではなく、認識の主体をも規定する。ブルジョア的な科学は、社会の諸現象を、――意識的にであれ、無意識的にであれ、素朴にであれ醇化させてであれ、――つねに個人の立場から考察する。(注、これは決して偶然ではなく、ブルジョア社会の本質から生ずるものであることを、マルクスは経済学上のロビンソン物語に関連させて、納得のいくように説明している。「経済学批判への序説」)。」69
 
対象の総体性というものは、これを定立する主体そのものが一つの総体である場合にのみ、定立されうるものなのである。近代社会の中で、こうした主体としての総体性という観点をあらわしているのは、ただ諸階級だけである。・・・・へーゲルはなお「偉大な個人」と抽象的な民族精神との間でこのような観点の動揺を示していたのであるが、・・・」69
 
へーゲルは、総体性=主体を、民族精神or偉大な個人と考えたが、マルクス=ルカーチは、階級と考える。歴史がしめすところによれば、これはどちらも間違いであった。そもそも、総体性=主体というテーゼが間違いであった。我々はへーゲル=マルクス=ルカーチの考えた「総体性」という概念自体を、アドルノにならって批判しなければならない。
 
「ローザルクセンブルグの主著『資本蓄積論』は、マルクスの俗流化が行われてから10年後にこの総体性の問題を提起したのである」70
 
「歴史的な過程の総体を考察するというへーゲル的・マルクス的な方法を放棄してしまい、個別科学的・非歴史的な「法則」を探求する「批判的な」考察の方法に近づくならば、[…]カント学派の抽象的な要請倫理学に逆戻りせざるをえなくなるのである。たしかに、総体性の考察がひきさかれるのならば、理論と実践の統一も引き裂かれるのである。」88
 
ルカーチは、へーゲルの「真理というものは、実体としてばかりでなく、主体としても把握され、表現されねばならない」という命題を「主体としての真理」として高く評価するが、それを具体的に見出したのはマルクスであるという。88
 
「階級の観点が(個人の観点に対して)学問的・方法的にすぐれていることは、すでにこれまでの論述の中で明らかになっているが、いまや、こうした優越性の根拠もまたあきらかになるであろう。その根拠は、階級だけがその行為によって、社会的な現実に浸透し、社会的な現実の総体を変革しうる、というところにある」88
 
「第3章 階級意識」より
「弁証法的方法は、この「虚偽意識」をその意識が属している歴史的総体性の契機として、つまり意識がそこではたらいている歴史過程の段階として、具体的に究明することを要求しているのである。」106
階級意識は、――抽象的に形式的に見るならば――同時に、自分の社会的・歴史的な経済状態についての、階級的に規定された無意識なのである。」109
階級意識は、ここのプロレタリアの心理学的な意識でも、プロレタリア全体の(大衆心理学的な)意識でもなく、階級の歴史的状態の意味が意識されたものだ」146
 
 
「第4章 物象化とプロレタリアートの意識」より
(物象化のためには)合理的機械化と計算可能性という原理が、生活の現象形態全体を捉えねばならない、ということである。[資本主義社会では]欲求充足の対象は、[たとえば村落共同体でのように]もはや一つの共同体の有機的な生活過程の産物として現れず、一方では同じ種類に属する他の事例と根本的に区別されない抽象的な類的事例として現れ、他方ではそれを所有するかしないかが合理的計算によって決められる孤立した対象として現れるのである。このように、社会生活全体が孤立した商品の交換行為に細かく分解されることによって、はじめて「自由な」労働者が生まれることができ、同時にこの労働者の運命が社会全体の典型的な運命と成らざるを得なくなるのである。」174
 
「(ブルジョア思想家)かれらは、この内容空虚な現象形態を、それの資本主義的な自然的基礎から切り離して自立化させ、それを人間的関係の可能性一般の超時間的な累計であるとし、永久に続くものとしてしまうのである。(このような傾向を最も明瞭に示しているのは、ジンメルの著書『貨幣の哲学』である。)」180
 
「このようにして、資本主義的な主体の態度が、静観的な性格を持つと言うことが,ここでも明かに現れているのである.なぜなら、合理的計算の本質は、結局のところは、一定の出来事の---個人の「恣意」から独立した----必然的・合理的な経過が認識され計算されるということにもとづいているからである。」184
 
「近代ブルジョア思想は、諸形式の妥当性を問題とする際に、これらの諸形式にはその根底にある存在が表現されているにもかかわらず、諸形式が妥当する「可能性の諸条件」だけを研究するから、これら諸形式の成立と崩壊、その現実的な本質と基盤を問うための明瞭な問題提起をする道さえも、閉鎖されているのである。」203
 
二 ブルジョア的思考の二律背反
「近代合理主義の新しさは、近代合理主義が、−−−次第に発展する過程で−−−人間の自然生活と社会生活のなかにあらわれるすべての現象を関連づける原理を発見すべきである、という権利要求をもって出現する、という点にある。それに反して、近代以前の合理主義は、つねにただ部分体系にすぎなかった。」210
{これと同じ指摘が、カッシラー『啓蒙主義』にある。}
 
「人間の存在の「究極の」諸問題は、人間の悟性には把握できない非合理性にまつわりつかれている。前近代的な合理的部分体系が、存在のこのような「究極の」諸問題に深く連関をもてばもつほど、この部分体系は、本質をはあくできない、単に部分的な、単に従属的な性質のものである。」210
「この合理主義的な思考類型のもつ純形式的な限界ということからすでに明らかと成るのは、合理性と非合理性とが必然的に相関関係を持ち、どの合理的形式も非合理性という限界または境界に必然的に突き当たらざるをえない、ということである。」211
合理主義と非合理的原理との必然的な相関関係と言う問題は、合理主義の体系全体をくずれさせ分解するほどの決定的な意義をもつようになるのである。そしてこれこそが、近代(ブルジョア)合理主義にほかならないのである。」212
「以上のような問題性が、極めて明瞭にあらわれているのは、この合理主義体系にとって不可欠なカントの物自体の概念が、注目に値するさまざまに色彩を変ずる意義をもっている、という点である。」212
 
「普遍的方法として合理主義から、必然的に体系化の要求が生まれれてくるのであるが、しかし同時に、普遍的体系の可能性を制約する諸条件を反省し、したがって、体系化の問題を意識的に提起するならば、体系によって提出された要求が不可能であり、実現されえないことが明らかになるのである。」216
「注(2)ギリシア哲学(おそらくプロクロスのようなごく後期の思想家は例外であるが)も中世哲学も、我々が意味するような体系を知っていない。近代的な解釈がはじめて、この体系をギリシア哲学や中世哲学のなかに投げ入れて解釈したのである。体系の問題は、近代になって、だいたいデカルトからスピノザにいたるあいだに成立し、ライプニッツからカントにいたるあいだにしだいに意識的・方法的な要求となってきたのである。」217
「ここで問題とされるのは、ブルジョア社会の二重の発展傾向が、ブルジョア社会の思考の中を、どの点で哲学的に貫くかを明示することである。すなわち、ブルジョア社会の発展が、その社会的存在の個々の部分までを次第に支配してゆき、自分の諸欲求形態に従属させるが、しかし同時に、---同様にますます−−−総体としての社会を思想的に我がものとする可能性および社会を導く使命を失って行く、という問題である。この発展の独特な移行点を示しているのは、ドイツ古典哲学である。」224
ドイツ古典哲学は、ブルジョア階級の状態のもつすべての矛盾を−−思想的に−−極端にまで推し進め、こうして(ブルジョア社会という)人類の歴史的発展段階を乗り越えて行くことが、方法的に必然的なものとして示される要点を、少なくとも問題として見出すことが出来たのである。」224
 
<ここからの結論1>普遍数学の登場
<結論2>社会関係は自然法則となる
「ここで重要なのは、一方で(社会的行動の客体としての)あらゆる人間関係が、自然科学的概念構成の抽象的要素という対象性形態、自然法則の抽象的基盤という対象性形態を次第に強くもつようになると、他方ではこの「行為」の主体もまた、――人為的に抽象化された――この過程の純粋な観察者とか実験者などという態度をとるようになる、ということをはっきり把握することである。」240
<結論3>自由と必然の分裂
「批判哲学が、実践的なものへと転回して、問題の解決を試みても、理論的に確立された二律背反は解決されず、むしろ反対に永遠化されることになった、ということがあきらかになる。」245
「『実践理性批判』の結論のところで、自然現象の「永遠の、鉄のように固い」合法則性と、個人的な倫理的実践の純粋に内的な自由とは、統一されずに分裂したままであるとともに、その分裂の中で使用されない人間存在の基礎として現れている。このようにこの二つの場合、どちらの方向においても、恣意的な独断的な決定によっては問題の解決が不可能であるということをつねに覆い隠す代わりに、この不可能性をはっきりと緩和することなく明らかにしたところにこそ、カントの哲学的な偉大さがあるのである。」245
 
近代哲学は、自由と必然の対立を解決できない、というルカーチの判断は正しい。しかし、それ以前にはそれが出来ていたというのではない。それ以前には、むしろ自由が発見されていなかった。近代になって、自由が発見されたのである。そして、その自由と必然を綜合することが課題なのではなくて、むしろ、近代的な自由概念の自己矛盾を暴くことが重要なのではないか。
 
・歴史的生成
「弁証法的方法の中ではじめて、直覚的悟性の要求(合理主義的認識原理を方法的に克服しようとする要求)は、明確な客観的で科学的な形をとるのである。」258
「ここに全く新しい、具体的概念の論理学、すなわち総体性の論理学が成立するのである。」259
「諸契機の独立性を止揚するのが、歴史的生成なのである。」264
「われわれが現実全体を、歴史として(したがってわれわれの歴史として、なぜならそれ以外の歴史は存在しないから)観察することができるならば、そこでは現実をわれわれの事行として把握できることになる。」265
「ヘーゲルが見出すことの出来た「われわれ」とは、周知のように世界精神である。あるいはその具体的な姿をよりよく表現すれば、個々の民族精神である。」266
「民族精神が歴史の主体でありその行為の実行者であるというのは、ただ外見だけのことであり、むしろ歴史の主体や実行者は世界精神である。」267
「ヘーゲル哲学は、主体・客体の同一性を歴史そのもののなかに見出し提示することが不可能であったから、歴史を飛び越え、歴史の彼岸に自己自身へと到達する理性の王国を作り上げざるを得なかったし、この理性の王国から、その後歴史が段階として、進行過程が「理性の狡知」として把握され得たのだからである。」268
 
近代社会の分裂、思想における自由と必然の分裂、などの解決を、ルカーチは、歴史性の中にみようとする。それは合理性と非合理性の関係そのものの合理化である。
 
「プロレタリアートは、社会および歴史に対し、特別の立場をとり、みずからの本質にもとづいて社会的・歴史的発展過程の同一の主体・客体として役割を果たす立場にたつのである。」272
プロレタリアートの自己認識とは、同時に社会の本質の客観的認識なのである。プロレタリアートがその階級目標を追求することは、同時に社会の−−客観的な−−発展目標を意識的に実現することを意味する。」272
 
「プロレタリアートの目標は、社会の発展目標である」といえるならば、「プロレタリアの自己認識が社会の本質の客観的認識である」といえる。しかし、これが正しくなかった。
 
<合理性の限界問題自身が、資本主義社会の中で必然的に登場する理論問題である>というのが、ルカーチの主張である。資本主義社会の中で社会の合理化が進むとき、理論のなかでも、あらゆる事象に合理性を追求する態度が広まる。その事例の一つは「美学」である。このように合理性の追求が始まり、合理性の支配が社会の一部ではなくて、全面的に展開するとき、合理性の正当化問題が生じるのである。
「総体としての歴史(一般史)は、個々の歴史的出来事の単に機械的な総計でもないし、また個々の歴史的出来事を超越している観察原理でもない。むしろ,歴史の総体はそれ自身実在的な歴史的力であって、この力は個々の歴史的事実の現実性(したがってまたその認識)から切断されるものではなく、これを切断しようとすれば、その個別的事実の現実性やじじつせいそのものもまた破棄しなければならないのである。」276
歴史の総体とは、この歴史的な個別的事実の現実性や事実性の究極的な真の根拠であり、したがってそれらを個々の事実として真に認識しうる可能性の究極的な真の根拠なのである。」276
 
ルカーチもまた基礎付け主義者のようだ。「主体としての真理」は、実存主義では、基礎付けを放棄した立場を意味する。しかし、ヘーゲルやマルクスの場合には、そうではない。それは単なる対象化する態度、「客観主義的な真理」への批判である。それは、主体的且客観的な真理を意味するのである。しかし、それを保証する主体は、存在しなかった。
今日、単一のブルジョアジーというものは、存在しない、資本は、内部に分裂、対立を含んでいる。したがって、そのように分裂した資本に対応して、労働者もまた分裂している。第二インターが成功しなかったのも、ブルジョアジーの利害が国家ごとに分裂していたので、労働者の利害もまた国家ごとに分裂していたせいである。そして、国家の内部でもブルジョアジーの利害は分裂している。ゆえに、総体性=主体としての階級は存在しない。マルクスがヘーゲルを批判して、国家は一つの主体ではないと指摘したように、我々は、階級は一つの主体ではないといわねばならない。
 
■ルカーチやアドルノが継承しようとした「総体性」概念を我々がどのように考えるかということが問題として残るとおもいます。